楽記

笙 うた 奏者 大塚惇平のブログです。

「響きあう」世界の先に。

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ようやく身体のこととか、色々と落ち着いてきて、これから旅を続けるにあたって、自分にとっていちばん大事なことってなんだろう?ということを考えています。自分が笙の響きの世界を通して在りたい世界、伝えたいことはなんだろう?と。長文ですがもしよろしければお付き合いくださいませ。

最近すご〜くハマっているマンガが、五十嵐大介の「ディザインズ」。そこには人間と動物の遺伝子を掛け合わせた「ヒューマナイズドアニマル」なる子供たちが出てきます。そこで重要な概念として、ドイツの生物学者ヤーコブ・フォン・ユクスキュルの「環世界」という概念が出てくるのですが、それはつまり「それぞれの動物がそれぞれの身体的、感覚器的条件で捉える世界」のことで、劇中のヒューマナイズドアニマルたちは、それぞれカエルやイルカや豹などの「環世界」を保ちつつ人間の自意識を獲得しているという設定になっています。

例えば主人公のカエルのヒューマナイズドアニマルのクーベルチュールは、主に皮膚感覚を通して世界を認識しており、特に水に触れることを通して世界と「響きあう」ことで、はるか遠く離れた場所の出来事や、「目に見える」世界を超えたものに触れる超感覚を獲得しています。いわば「神」の視点。

その同じく五十嵐作品でディザインズの前日譚である短編の「ウムヴェルト」では、ヒューマナイズドアニマルの開発者であるオクダは、神から最も遠くなってしまった人間たちに、蛙の感じる宇宙、環世界を教えてほしい、とクーベルチュールに語りかけて終わります。

まあ、ロマンティクな話といえばそれまでですが、でも、笙を吹いている時、また、即興演奏をしている時の感覚は、「響きあう」ことで世界にひらかれていく感覚であるのは間違いなくて、そこに自分にとって帰るべき「なつかしい」世界がある、と直感しています。また、笙という楽器自体が、そういった性質のものである、とも。

話は変わりまして、田口ランディさんのWebマガジン「ヌー!」を読んでいます。その中で、自閉症であるにも関わらず、「指弾」というコミュニケーションの方法を用いて他者とコミュニケーションをとることができる土井響さんという方が、「耳のまほう」という言い方で、それこそ世界と「響きあう」方法について語っています。それを読んでいて思ったのが、それは自分が即興演奏をしている時に大事にしている感覚や、笙の響きに感じている感覚にすごく似ている、ということでした。

思えば自分にとって最初の「響き」についての先生であった渡邊満喜子さんは、「声」を通して世界と響きあうことを教えてくれた人でした。僕にとって最初の即興表現の始まりもそこにあります。それが笙との出会いにもつながっていきます。

話はくるくるしますが、最近また宮田まゆみ先生の音源を聞き返していて、自分にとっての笙のファーストインプレッションを思い出しました。それは宇宙の響きであり、自分が最もなつかしいと感じる世界からの呼び声でした。

まだまだ、高野山空海への想いもつきません。なんせ生まれる前からのお付き合いですものね。空海も、その著作「声字実相義」の中で真言的な響きの世界に触れています。出家は・・しないと思います。笑。

さて。。私は何がしたいのでしょう。。。でも、全部繋がっていますね。なぜ生きるかというと、よりよく生きるため。よりよく生きるとは、自分のあるべき世界にあるということ。行くべき場所、会うべき人たちがたくさんいます。

(写真は屋久島いなか浜のアカウミガメのこども。この子はどんな世界に生きているんだろう?そして今も生き延びているのかな?)