楽記

笙 うた 奏者 大塚惇平のブログです。

4/1 齋藤徹ワークショップ 感想を。

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少し前になってしまいましたが、コントラバス奏者、齋藤徹氏の連続ワークショップの初日、未熟ながら感想を描いてみました(私もほんの少し、サポートで入らせていただきましたが、こちらはワークショップ運営側としての総意ではなく、一参加者としての個人的な感想になります)。
前半の徹さんの音、音楽、即興に関するご自身の経験を交えたお話はさることながら。どなたかが別の箇所で感想を書いていただけると思うので、私は後半の希望者による即興演奏の実践編のことを少し。即興演奏の実践編では、齋藤徹さんと実際に8人の希望者が即興パフォーマンスをし、その後で全体での感想のシェアをしました。

以下、少し抽象的な言い方になりますが、改めて「即興」とは何か、ということの輪郭をぼやかされた、というのが一番の感想です。見ることと見られること、聴くことと聴かれることの境界が限り無く曖昧になる。あるいは、それぞれの見ること、見られること、聴くこと、聴かれることが限りなくただ交差している、という感覚。

そうなると、「いい即興」「わるい即興」の判断が限りなく曖昧になる。限りなくただただ個々の主観が交錯している、というか。個々人がそれぞれ違うものを見、違うものを聴いている、という単なる事実がただ炙り出されてくる。けれど、それと同時に、そのそれぞれの主観同士が矛盾しつつ響き合っているというか、同時性、共時性みたいなものも炙り出されてくる気がしました。特に最後の感想のシェアでそのようなことを感じました。

「即興」と一口に言っても、世の中には様々な在り方、層、があって、その一つの断面を見ている見方だと思いますが、個人的には即興の面白さの一つはそのような面にあると思っています。限りなく解体された場所に降りていける力、と言いますか。けれど、そういう「場」を主宰していたのは紛れもなく徹さんという「個人」の力なのであって、そこに「個」としての身体であるとか、音であるとか、パフォーマンスであるとかいうことの逆説的な面白さがあるような気がしています。ドリーミーな言い方かもしれませんが、「普遍的な場所」に降りていくにはあくまで「個」のちから、力量が必要である、と。

最近パラパラ読んだ『村上春樹河合隼雄に会いにいく (岩波書店)』から、河合隼雄先生の以下の言葉が目にとまりました。ジャック・マイヨールや、ラインホルト・メスナーらが、それぞれに、海に潜る、山に登る際の体感について引いてきている流れで(ここもとても面白いですが)、

 その人にとってものすごく大事なことを、生きねばならない。しかしそれをどういう形で表現するか、どういう形で生きるかということは人によって違うのです。ぼくはそれに個性が関わってくると思うのです。生き抜く過程の中に個性が顕在化してくるのです。
 人間の根本状態みたいなものはある程度普遍性を持って語られうるけれども、その普遍性をどう生きるかというところで個性が出てくる。だから、ある人は海に潜るよりしかたがないし、ある人は山に行くよりしかたがないし、ある人は小説を書くよりしかたがない。(p.145)

今回のワークショップで感じたもう一つのことは、まさにそのようなことでした。
前半の徹さんの講義で語られた言葉は、音や、音楽、即興に関する、ある程度「普遍的」な事物を扱っていたように思うのですが、実践編で私が強く感じたのは、コントラバスという楽器、そして齋藤徹さんという人の圧倒的な「個別性」でした。コントラバスという楽器の持つ器物的な限定性、またその歴史、そしてそのコントラバスという楽器に至った徹さん、徹さん個人という人の歴史。前半で語られた内容を踏まえて、実践編で改めて浮かび上がってきたのが、あくまで徹さんという人がそこでコントラバスという楽器を弾いている、という事実でした。だから、ある人はコントラバスを弾くよりしかたないし、ある人は笙を吹くよりしかたがない(徹さん、すみません)。

その人のどうしようもない個別性みたいなものが際立って立ち上がってくるのが、即興の面白さでもあるのかもしれません。けれど、その境目はどこまでも曖昧になっていく。これも、徹さんのおっしゃった「わかってはいけない」「わからない」ということの大切さのように思えてなりませんでした。

(写真は齋藤徹氏の投稿から拝借しました)

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5/3 伝統雅楽体験会・笙の音色を楽しもう〔よみうりカルチャー荻窪〕

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ふだん笙を教えている、よみうりカルチャー荻窪にて笙のワークショップを企画していただきました。

笙の音色を寝転んで、歩いて、とても近くで、あるいは暗闇の中で・・・純粋に音として体験してみるとどうでしょう?もちろん実際に体験用の楽器もご用意しております。最後には初夏の夕暮れの屋上で笙を奏で、屋外の音に耳を澄ます体験もします。

お子様から、大人まで、どなたでも受講できる形にしました。
ぜひ親子で、小さな人たちの参加を期待しています。

ゴールデンウィークの中日ですが、皆さんぜひ遊びにいらしてください!

詳細、お申し込みは下記サイトからお願いいたします。

伝統雅楽体験会・笙の音色を楽しもう:よみうりカルチャー荻窪:よみうりカルチャー(読売・日本テレビ文化センター)

アートマネジメント人材育成のためのワークショップ100 〜地域リソース発掘・連環・創造のために〜

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こんなこともやってますよ、というご報告として。静岡大学がやっている昨年度の「アートマネジメント人材育成のためのワークショップ100 〜地域リソース発掘・連環・創造のために〜」の報告書をいただきました。

分不相応にも偉い先生方に混ぜていただき中勘助文学記念館でお話・演奏をしたり、
書家の大杉弘子先生、雅楽演奏家・笛奏者の中村香奈子先生とご一緒にパフォーマンスしたりしました。

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報告書を見ると、ふうん、我が郷里の静岡大学ではこういうことが行われているのか、という感慨が。アサダワタルさんとかも講義で来てたんだなとか。

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静岡の文化を巡ることについては色々思うところありますが、今はどうしても雅楽、音楽にこだわるなら東京。けれど、最近齋藤徹さんのワークショップに関わるようになって、改めて自分は「音楽」も「雅楽」もやりたいけれど、「生きるということ」がしたいんだなあと改めて思います。「生きること」にもっと広く視野を持つことにちょっと楽しみを感じてます。アート関係はその知見を提供してくれる部分はとてもあるのでしょう。

その上で、あえて「音」「音楽」の深みを知りたいという気持ちも出てきます。

4/12 Torus Vil. Spring

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来月、春の演奏会です!

佐藤公哉くんが主催するTorus Vil.の演奏会です。イランの打楽器奏者の蔡怜雄くん、佐藤公哉くんとのデュオ「三日満月」他様々に活躍している権藤真由さんとご一緒します。

自分の演奏活動の原点とも言えるメンバーだとしみじみ思います。初めて笙でパフォーマンスをしたのは公哉くんと真由ちゃんでしたし、再度活動をしようと志した頃に一緒に長野に行ったメンバーもこのメンツでした。

曲目は、藤枝守さん作曲の「植物文様」シリーズから、笙とヴァイオリンの楽曲を、そしてradioheadのmotion picture soundtrackを…!公哉くんによるインドの鍵盤楽器、ハルモニウムによるアレンジ曲がかなり光る感じになっています。かなり面白いと思います。まさかradioheadの曲を笙でやることになるとは…!

Torus Vil.の地球の音楽文化を横断する活動、ますますこれから面白くなっていくのではと思います。謎のPVも近々に公開されることでしょう笑。みなさまのご来場をお待ちしております。

***

雅楽、クラシック、ペルシャ音楽、ポップス、現代音楽ー。
様々な背景を持つ音楽家たちが、その根源を掘り下げながら新しい音の風景を描く。のびやかな春の音楽会。

2017/4/12(wed)
open 19:00 / start 19:30

出演:
佐藤公哉(ヴォーカル,ハルモニウム,ヴァイオリン)
権頭真由(ピアノ,アコーディオン)
大塚惇平(笙)
蔡怜雄(トンバク,ダフ,レク,サントゥール)

¥2700(1drink付き) *予約、当日とも

会場:絵空箱
〒162-0801 東京都新宿区山吹町361 誠志堂ビル1~2階
(有楽町線江戸川橋」駅 徒歩2分/東西線「神楽坂」駅 徒歩9分)
http://esorabako.com/

ご予約・お問い合わせ:torusvil@gmail.com

【笙の稽古場・最新情報】

ちょっとお稽古場の情報をまとめます!

お稽古を通して、「笙」を中心にいろいろな人が集まるサロン的な場になればいいと思って活動しています。「笙」や「雅楽」へのポータル的な場所にもなればと。というわけで、こちらもちょくちょく定期お知らせや、様子をご報告していく予定です。笙をやってみたい方はぜひ参考にされてください。

1.大塚個人のお稽古場
基本月2回水曜夜19:00~ですが、講師の大塚、生徒さんの都合に合わせてフレキシブルに決めています。詳細は以下。今はアートとか身体表現的な雰囲気?になっております。とてもフランクな雰囲気です。 

ohtsukajumpei.hatenablog.com

 

2.よみうりカルチャー荻窪
安定のよみうりカルチャーです。第2、4木曜日19:00~。経験者の生徒さんが多いです。もちろん初心者も大歓迎。ゴールデンウィークには親子向けの雅楽、笙のワークショップも検討中です。少し前に地元荻窪のタウン誌にも掲載いただきました。お稽古場の様子の写真もアップします。

雅楽 笙(しょう)を奏でる:よみうりカルチャー荻窪:よみうりカルチャー(読売・日本テレビ文化センター)

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3.産経学園カルチャーセンター新百合ヶ丘
4月から新たに開講する講座です。第2、4水曜日10:30~。こちらは午前中の講座になります。

www.sankeigakuen.co.jp

 

ひとまず以上になりますが、みなさまのご受講をおまちしております!

映画『蹄』予告編公開

www.youtube.com

先日もお知らせしました、私が劇中曲を担当した映画『蹄』、予告映像が公開されています。笙の音色が響き渡っておりまするぞ!クラウドファンディング、終了まであと3日ですが、最後の一押し、目標金額達成へ向け皆さまのお力添えを賜ることができましたら。なんと一口1000円から。何かを応援するのって、すごくエネルギーをもらうことだと思うので、どうぞよろしくお願いいたします!!クラウドファンディングのページは以下でございまする。

motion-gallery.net

笙の演奏について 雑感①

先日イランの打楽器奏者の蔡怜雄くんと映像を撮りまして、また、近々にミニアルバムのようなものをリリースできそうです。しばしお待ち下さいませ。

で、作曲について雑感。私は何回か「作曲」を試みてきたのですが、なかなかできない、というか、モチベーションがない。では、と出来の良い自分の即興演奏を完コピするか、とも思いましたが、これもやってみると、やはり即興演奏は、再現してもダメなんですよね。やはり、それは「その時と場」の音なんですよね。

僕は古典も、五線譜で記譜されている、どちらかといえばアカデミックなものも、大好きですし、バンバンやりたいのですが、そのことはまた書くとして、

やはり、最初に自分が受けた笙のイマージュのようなものを僕自身が「聴きたい」というのがあります。でも、それを現実の世界で「聴く」ためには、そのための「うつわ」がある程度欲しい。

ところで、雅楽もそうですが、アジア的なポリフォニーって、ある一つの「うた」を、それぞれ違う楽器がそれぞれ違うようにやっている、それをたまたま一緒にやっているだけですよ、という感じをすごく受けるのですが(笙、篳篥龍笛の三管合奏とかまさにそうだと僕は感じますが)、

その「うた」の部分、根源的に音が音がになる前の、まだ目に見えない、耳に聞こえないある種の運動性をお互いに共有して、それをその都度その都度それぞれのやり方で音にする、という形で、ある種の「曲」にすることができないか、と思っています。

だから、その「曲」ないし「うた」は、笙一管で演奏してもいいし、他の楽器がいろいろ入ってきてもいい。「かたち」はどんなでもいい。けど、ある一つの「うた」を共有している、即興的な枠組みを一つの「かたち」として提示できないかなあ、と。

じゃあその「うた」を具体的にどういう風に共有しよう、というのはあって、これからいろいろやろうと思っていますが、キーを決める(あるいは特殊な音階をつくる)、図形譜を用いる、楽譜としての「詩」を書く、雅楽の曲目でよくあるように、そこ曲独特の「手」だけはきちんと決める、など。

そういう試みを、れおくんとこれから本格的にアルバムを作る中で試みられればなあ、と思っています。

長くなりますが、最後に私の覚書として。少し前に、上野の不忍池の弁天堂の縁日の法要に参列したのですが、その際にお坊さんと参列者の有志が般若心経などを唱えていました。

たまたまそこに集まった人がたまたまそれぞれにいちおう同じようなペースでお経を唱えているだけだし、もちろん「音程」はそれぞれ適当である。けれど、そこに「全体」が鳴っているという感覚がすごくある。個人個人が独立してただたまたまそこに集まって淡々と音を出している。一緒に唱えましょう、みたいなベタベタした感じもない。ただその場を共有しているという感覚だけがある。ああ、これがすごくアジア的なポリフォニーなのだなあ、と思いました。集しては散ずる、ただそれだけの中にすごく美しいものがあるなあ、と思ったのでした。俺はそういうのがいいな、と何か淡々と思った、というお話でした。