楽記

笙 うた 奏者 大塚惇平のブログです。

笙の演奏について 雑感①

先日イランの打楽器奏者の蔡怜雄くんと映像を撮りまして、また、近々にミニアルバムのようなものをリリースできそうです。しばしお待ち下さいませ。

で、作曲について雑感。私は何回か「作曲」を試みてきたのですが、なかなかできない、というか、モチベーションがない。では、と出来の良い自分の即興演奏を完コピするか、とも思いましたが、これもやってみると、やはり即興演奏は、再現してもダメなんですよね。やはり、それは「その時と場」の音なんですよね。

僕は古典も、五線譜で記譜されている、どちらかといえばアカデミックなものも、大好きですし、バンバンやりたいのですが、そのことはまた書くとして、

やはり、最初に自分が受けた笙のイマージュのようなものを僕自身が「聴きたい」というのがあります。でも、それを現実の世界で「聴く」ためには、そのための「うつわ」がある程度欲しい。

ところで、雅楽もそうですが、アジア的なポリフォニーって、ある一つの「うた」を、それぞれ違う楽器がそれぞれ違うようにやっている、それをたまたま一緒にやっているだけですよ、という感じをすごく受けるのですが(笙、篳篥龍笛の三管合奏とかまさにそうだと僕は感じますが)、

その「うた」の部分、根源的に音が音がになる前の、まだ目に見えない、耳に聞こえないある種の運動性をお互いに共有して、それをその都度その都度それぞれのやり方で音にする、という形で、ある種の「曲」にすることができないか、と思っています。

だから、その「曲」ないし「うた」は、笙一管で演奏してもいいし、他の楽器がいろいろ入ってきてもいい。「かたち」はどんなでもいい。けど、ある一つの「うた」を共有している、即興的な枠組みを一つの「かたち」として提示できないかなあ、と。

じゃあその「うた」を具体的にどういう風に共有しよう、というのはあって、これからいろいろやろうと思っていますが、キーを決める(あるいは特殊な音階をつくる)、図形譜を用いる、楽譜としての「詩」を書く、雅楽の曲目でよくあるように、そこ曲独特の「手」だけはきちんと決める、など。

そういう試みを、れおくんとこれから本格的にアルバムを作る中で試みられればなあ、と思っています。

長くなりますが、最後に私の覚書として。少し前に、上野の不忍池の弁天堂の縁日の法要に参列したのですが、その際にお坊さんと参列者の有志が般若心経などを唱えていました。

たまたまそこに集まった人がたまたまそれぞれにいちおう同じようなペースでお経を唱えているだけだし、もちろん「音程」はそれぞれ適当である。けれど、そこに「全体」が鳴っているという感覚がすごくある。個人個人が独立してただたまたまそこに集まって淡々と音を出している。一緒に唱えましょう、みたいなベタベタした感じもない。ただその場を共有しているという感覚だけがある。ああ、これがすごくアジア的なポリフォニーなのだなあ、と思いました。集しては散ずる、ただそれだけの中にすごく美しいものがあるなあ、と思ったのでした。俺はそういうのがいいな、と何か淡々と思った、というお話でした。