楽記

笙 うた 奏者 大塚惇平のブログです。

屋久島スピリチュアルジャーニー その1

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「スピリチュアル」という言葉は好きではないのですが、どうしても今の時代、「スピリチュアル」という言葉でしか名指せないものがあると思います。「宗教」でも、「信仰」でもなく・・・それなりに毒のある言葉ですが、あえて「スピリチュアル」という言葉が今の時代に指し示すものを批判的に引き受けた上で、そういうものについて語っていくことがどうしてもしたい、と思い、少しずつ書いていこうと思っています。ま、カミングアウトです。というわけで、ちょっと前の話になりますが、屋久島スピリチュアルジャーニーを、少し。いや長いか笑。

屋久島のことは、過去記事も貼り付けておきます。

 

ohtsukajumpei.hatenablog.com

 

ohtsukajumpei.hatenablog.com

 

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僕は、神仏や、精霊、といった存在というのはいると感じています。人間的な価値観の中だと、神仏は畏れ敬うものであって、時に人を罰する、というような感じですが、僕自身はそういうものは「お友達」だと思っています。

そういう自然の中にあるエネルギーは、人間を助けてくれたりしますが、そこに損得関係はないとも感じています。生贄や供物を捧げなければ願いを叶えてくれない、人間を祟る、等・・・。それは、人間がそういう風に「眼差す」からそういう風になっていくのであって、それも人間の文化だと思います。神殿を作り、儀式を作り・・・そういうものはその社会の文化的伝統であって、そこにはそれなりのエネルギーが発生しますし、リアリティーも生じると思います。それはそれで、そういう美学なのであって、素晴らしいものだと思いますが、それもあくまで相対的なものであり、共同幻想なのだと感じています。けれど、逆に言えばそれこそが人間のリアリティーにいのちを注ぐ秘儀でもあるのですが。

また、実は神仏とか、そういう存在にとっては、「上下関係」という概念はなく、神対人のような、そういう非対称な関係を作ったのは人間だと思います。お互いに単なる宇宙の中の存在物なのであって、友達に頼み事をしたり、友達を尊敬したり、敬うのは、別に損得関係があってやるのではなくて、やってあげたいからやるわけで、普通のことですし、そういうものだと僕は思っています。僕個人は、そういう交流をしています。

人間が「そういう風に眼差す」からそこに存在しているのであって、そういうものだと思っています。

確か、ずうっと前に読んだ田口ランディさんのエッセイの中で、アイヌの有名なシャーマンのアシリレラさんとのエピソードで、人間がいなければ、世界に意味はなくて、ただ、のっぺりと存在しているだけになってしまう、とレラさんが語るシーンがあった気がします。本当に、そういうことなのではないか、と僕は思っています。

まあ、そうは言っても笑、僕は神社とか、仏閣は大好きですし、エネルギーをもらいますが、やはり、そういうのは土地そのもののピュアなエネルギーだけでなくて、人の想いとか念とか記憶とか歴史が積み重なってエネルギーになっているものです。人間の集合意識と言いますか。もちろん、人間が文化的に構築するからこそその土地の荒ぶるエネルギーが人間にとって咀嚼可能なものになるということもありますけれど。それはとても魅力ですし大好きですし、そういう風に「夢」を見た人間の文化の中に入ることはワクワクします。そのあたりの面白さは、なかなか妙味というか、本当に面白く、いつも発見があって楽しいのですが、そう言ったどちらかというと人の創りしものより、もっとピュアなものに触れたいなあ、と思う時もあるわけです。

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その点、今回滞在した屋久島は、あまり人の念が入っていない場所が多いように感じました。屋久島には、あまり民俗芸能みたいなものがなく、オリジナルな昔話とか、オリジナルな信仰もあまりない・・・(なくはないのですが、何か、とってつけたような・・・僕の無知でしたらすみません)。基本的にはヤマトの文化圏になるので、寺社仏閣があるのですが、それも違和感を感じなくもない・・・。ヤマトの集合意識はそんなに強くないように感じました。

多分、そういう文化を発展させるほどに、島に暮らす人たちには余裕がなかったのではないかと感じました。これだけ圧倒的な「自然」の中で暮らすことは現実的に相当大変だったのではないか・・・という気がします。何か、歴史的なものもあるのかもしれません。

それと、屋久島の浄化力がすごい、というのもあると思います。これだけ場の力が強くて、浄化力が強かったら、あまり人間の念とか残りにくいのではないか・・・という気もしました。屋久島自体が巨大な花崗岩の塊ですし、その上から毎日のようにザーザー雨が降っていればそりゃそうだろう・・・。勝手な僕の感じ方ですが。

まあとにかく、とてもピュアな自然のエネルギーがまだまだ残っている場所なのだと思いました。そういう場所は、自分自身の中にあるピュアな部分に感応しやすいのだと思います。前回の屋久島の滞在は、もう一度自分のピュアな部分に立ち返るためだった、と思っています。

特に山の上は、非常に波動が高いと感じました。なるほど、波動が高いとはこういうことか、と。振動数が細かい。僕にとってのクライマックスは宮之浦岳でしたが、本当にピュアな場所でした。屋久島には「岳参り」と言って、山の頂上まで神様を拝みに登る風習がありますが、その祈りの念みたいなものも、すぐに上に上がってしまっているんだろうなあ、という感じで、あまり人の気配を感じませんでした。屋久島の浄化力のなせる技、でしょうか。本当に素晴らしい場所でした。この九州の端にある島に九州最高峰の山があるとは不思議なものでした。この話はもう少し続けます。