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楽記

笙 うた 奏者 大塚惇平のブログです。

小さな声 大きな声

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龍くんの車で御殿場へ向かう、その車内から  富士山、夕焼け

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先日、友人たちとささやかに行われている読書会で、「老子」を読みました。そのことと、先日和琴について書いたこととで、少し思い出すことがありました。

小さい微細な音に耳を澄ますこと、小さく、弱いものの声に耳をかたむけること…自分の、あるいは他者の奥から紡ぎ出される微細な震えの語りに耳を済ますこと…音楽は、時に「権力」「力」と結びつきますが、その時に発されるのは「大きな音」であり、「声」のような気がします。これは、文字通りの意味でもあり、文字通りの意味でもなく。

自分自身が笙の演奏をしていく、と決めて、いや、そうせざるを得ない状況の中に追い込まれて、ほんとうに多くの人たちのちからをお借りしながら、一歩一歩歩みを進めてきたのですが、その中で、とても葛藤があったのが、この「小さな声」で語ることと、「大きな声」で語ることの落差でした。それはネット上での言語との付き合い方でもありました。

僕も、そこまでではありませんが、facebookを利用させてもらっています。お陰様で色々な繋がり、活動の助けをいただいて、とてもありがたいし、可能性も感じます。その一方で、facebookで扱えることは、やはりどうしても「大きな声」で語ることになりがちですし、ネット上には「大きな声」が溢れていたりします。が、「笙の奏者」として社会的な立場を作っていこうとする時、どうしても「大きな声」で話す必要が出てくる時があります。

小さく、弱い、微細なものの声に耳を傾けることは、時にとても勇気と根気がいることです。だから、時に人は世の中の「大きな声」に自身を委ねてしまうことがあります。何かの「概念」を、あたかもそれが自分の実感であるかのように偽ってしまうこともあります。そのほうがとてもラクですし、それで社会的に「うまくいってしまう」人たちもいます。そうなってしまうこと自体は、僕もよくわかります。それがいいことか悪いことかは、僕にはわからないですし、きっといいことも悪いこともあるのだと思います。

友人の受け売りになるかもしれませんが、特にこの今の日本の現状において、「わからない」ということ、その中でどもるように、不確かで微かな震えの中で語られる身振りのようなものの中に、人間として生きることの真実があるような気がします。それと同時に、行動を起こすこと、あえて「大きな声」を使っていくことの必要もあるのではないかとも考えます。それは、真の意味で清濁併せ呑むということなのかもしれません。

先日、生きづらさを抱えているこどもたちのために何かしたい、ということを書きましたが、逆に言えば、そういう子どもたちに恥じない生き方をしたい、ということでもあります。誰でも、自分の中に子どもの部分があります。その子どもの自分に嘘をつかない、素直な在り方でいたいと思っています。惇