楽記

笙 うた 奏者 大塚惇平のブログです。

雅楽の「コトバ」*2

前回の続き。角田博士の、「日本人は自然音や、日本に元からあった伝統的な音楽を言語的に処理する」という説から、私が腑に落ちるなあ、と思うことについて、書いてみたいと思います。

私は、雅楽の古典を演奏するときの感覚と、五線譜で書かれた、「西洋的な」ものを演奏するときの感覚は違うようにいつも感じていました。

雅楽以外でもそうですが、私たちは楽器を手にして稽古をする前に、「唱歌(しょうが)」と呼ばれる楽曲の演奏をなぞった「歌」を歌ってお稽古します。その捉え方がとても「言語的」な気がするのですね。

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上が雅楽古典「越殿楽」の総譜。右から、楽箏譜、篳篥唱歌、笙唱歌、龍笛唱歌、琵琶譜が書かれており、この楽譜はそれぞれの楽器×5が、3行で書かれています。縦書きで、とても「言語的」ですよね。それに対して、僕の感覚から言うと、五線譜はなにか「数学的」な感じがします。演奏しているときに、脳の使っている場所が違うような気がするのです。

また、日本音楽にはハーモニーの概念がありません。いわゆる「ハモる」というのがありません(そうですよね?)。西洋音楽でいうところの「ヘテロフォニー」と言って、同じ旋律を、違う楽器で、「違うように同じことをする」ようなことをしています。

雅楽の、笙、篳篥龍笛の三管合奏などは、その典型かと思います。よく、雅楽の合奏の説明として、「篳篥が主旋律を奏し、龍笛がそれを装飾するような音型を奏し、笙が演奏全体を包み込んで流れを作るような役割を果たしている」というようなことが言われますが(実際そういう部分もあるのですが)、おそらく本来は、あるひとつの「旋律」を、笙、篳篥龍笛がそれぞれに「同じことを違うようにやっている、それをたまたま同時に演奏している」のだと思います。つまり、笙、篳篥龍笛がそれぞれに「音として立っている」のが本来なのかな、と今の僕は思っています。

まあ、実際の合奏の時どう合わせていくのかといえば、また色々と出てくるのですが。僕が今笙のお稽古を受ける時も、先生はやはり「笙の基本的な形があって、それを笙だけできちんとやれるようになっておくこと」を強調されます。「ただ実際の合奏の時は他の管次第になっちゃうんだけどねえ…笙をもっと聞いて欲しいんだけどねえ…」ともおっしゃいます笑。

先日のお稽古の時も、自分の中で笙の演奏に関する大きな発見がありまして、やはり伝統の中には笙だけの音世界が確かにあるんだな、ということを実感しました。ひどいところでは、笙の音は鳴っていればいい、なんてところもあるみたいですが。。そんなことは決してないです。笙という楽器は合竹を吹くこと、古典のためにある、もう古典だけでいいんじゃないか、くらいにこの前は思いました。自分の活動と矛盾していますが笑。

話がそれました。とにかく、雅楽でも、根本にはひとつの「うた」があって、それを色々な楽器で違うようにやる、ということのような気がしていて、そこは、ハーモニーではない、日本音楽の「コトバ」的な部分があるのかなあ、と感じています。

長くなったので、またもう少しこのお話を続けたいと思います。(続)