楽記

笙 うた 奏者 大塚惇平のブログです。

雅楽の舞について*2

さて。前回の続きです。

一見すると淡白かつ単調に見えるかもしれない雅楽の舞をどう楽しむか…ということなのですが、

右舞の平舞(四人ないし六人でゆったりと舞う舞)の場合、すべての舞に共通な舞の「手」と呼ばれる決まった「型」のようなものがあるのですが、その「手」を組み合わせることで、ひとつひとつの舞が出来上がっています。もちろん、それぞれの舞に独特の「手」はあるのですが、同じ手が、違う舞に出てくるのはざらです。なので、何も知らない人にはどれも同じ舞に見えてくる部分があるかもしれない…。

そして、雅楽の舞の振りは、何かを「表現」しているものにはあまり見えない…あまり人間の感情とか、思考を表現しているものではないかもしれません。とても抽象的で、ある意味幾何学的な文様を描いているような舞振りです。

もしかしたら、かつてそれぞれの「舞の手」には、こういう意味合いがある、という共通認識が、雅楽に携わる、あるいは雅楽を観賞する貴族などの人々のあいだにあったのかもしれません。その文化の中においてのみ了承されうる共通認識のようなもの…しかし、そういうものがある、ということはあまり聞いたことがありませんし、それは失われてしまったのかもしれません。

話は変わりますが、この前お会いした尺八を吹く方が、尺八の音は竹林を吹き抜けていく風の音を表現したりするけれど、それはあくまで「人間が感じた自然の音」の表現であって、雅楽は、なんかそういうところからもっと遠いところにあるものを鳴らしているような気がするなあ…とおっしゃっていた…。

たしかに、雅楽全般においてそう言えるところがあるように僕も感じます。高度に抽象化された形象…どちらかというと、水に波紋が広がっていく様や、自然の中にある渦巻きの形象、波が揺らぐ様、天体の周期的な転回…のような、物質の運動性をそのまま象っているものなのかな、と感じることがあります。

よく、雅楽は小宇宙を表す、と表現されることがありますが、それもむべなるかなと思います。物質が物質としてかたちになる以前の、形象だけの世界…そういう側面が雅楽の中にあるのかもしれません。

まだまだ、わからないことだらけですが、雅楽の舞は、そういう、必然的な物質の運動性の中にある、美、のようなものが高度に凝縮されたものなのかもしれません。渦巻きの形象や、草木の萌え出ずるそのかたち、花びらのひとつひとつのかたち、波の波紋…そういうものに私たちは美を感じたりしますが、それとおなじような感覚で雅楽の舞を観賞してみると、また違った印象を持たれるかもしれません。

…というわけで、次回の舞のワークショップではそのようなこと含め、お話ししたり、実際の舞を動いていただければなあと思っています。多くの方と雅楽の舞の中にある美のようなものをシェアできましたら幸いです。

 

大塚惇平

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