信濃の国原始感覚美術祭2016 無事終了しました。
帰ってきてからバタバタで、ご報告が遅くなりました。「信濃の国 原始感覚美術祭」のオープニングでの演奏が、無事終わりました。
今回、分不相応にも、コントラバス奏者の齋藤徹さんにお声がけさせていただき、ご一緒させていただく事が叶いました。
「うみに聴く 水の沙庭」・・・「大きな声、音」ではなく、「小さな声、音」を聴く・・・ということを謳ったつもりの題名でしたが、それが最も必要なことは自分なのではないか?ということを感じさせられました。
曲目は、笙のソロにて平調調子六句、齋藤さんとの即興デュオ、齋藤さんの楽曲「オンバクヒタム琉球弧編〜トンビ」続いてハックメオを観客のみなさんにお配りし、参加してもらいながらの、演奏、、最後にもう一度即興デュオをさせていただきました。
「続けるのか」「やめるのか」その迷いに蹴りをつけて「はじめること」を選択した…それから2年と少し経ちますが、演奏活動を続けてきた中で、僕自身はまだまだ「わからない」ことだらけで、しかし、自分が「わかっていない」ということがわかってきた…そしてそこにこそ、可能性がものすごく、ある、ということに喜びを感じています。
色々とお声がけいただいたご縁で、今回齋藤さんとは4回目のご一緒させていただく機会でしたが、(時と場所と縁からか)今回初めて齋藤さんの「音」に本当に(畏れ多くも)触れさせていただいたように感じました。
藤家流琵琶の逸話を伝える鎌倉時代の著書「文机談」等を読むと、名手の藤原師長の琵琶は、月の玉の光のような、とか、風の渡っていく音のように聴こえた、とか、書いてあるのですが、
齋藤さんの音からは本当にそのようなもので、「海の深いうねりの音」や、「トンビが羽ばたき飛ぶ音」そのまま音に映るように感じます。それは、「擬音的に」ではなくて、その響きの形象のようなものがそのまま映っている…ような感じなのです。
楽器を演奏するというのは、楽譜の通りに演奏できる、とか、指がきちんと思ったように動く、とか、技術的なものは当たり前にありますが、その上で、さら形象を音に「映す」というのは、実はとても「高等技法」で、微細なものを聴く感性を、聴き手にも求められるものがあると思います。
あるいは聴き手の聞きたいものを音に映す、あるいは、音の中に自分の聴きたいものを聴く、そういう場の引力を作り出す、ということでもあるのかもしれません。
今回、お客さんにもハックメオや声で参加していただくシーンがありましたが、音を聴くこと、聴き合うこと・・・そしてもっと微細なものを聴く、そういう感じ方があるよ、ということをお伝えしきれなかったかな、と思う部分がありました。
齋藤さんも「音が通じたというよりは、願いが通じたかもしれないと言う感触が残りました」と感想を残してくださっていますが、そこは私の反省でございます。。やはり、音が通じてほしい。
何か、いろいろ書き連ねてしまいましたが、「小さな音、声」に耳を傾ける、微細のものの音を聴く…そういった感覚が、自分にとっての「原始感覚」であったりしますが、そういうことをもっと伝えられるような演奏活動を行っていきたいと思った次第であります。
・・・って、なんか真面目なことばかり書いてしまいましたが、滞在自体はすごーく楽しかったです!滞在中大変にお世話になりました、森さま、素晴らしい滞在場所とご飯をありがとうございました!そしてこの場を作るために奔走いただきました細田さま、杉原さま、重ね重ね御礼申し上げます。また彼の地を訪れること楽しみにしております!